
萩焼の魅力とは何か?
その謎を探って、陶芸や絵画制作も楽しんでいる俳優・中尾彬さんが、萩焼を訪ねました。
※注1/茶陶の名陶として、楽焼(京都)、萩焼、唐津焼(佐賀)の3つを称えた言葉。
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中尾 彬(なかお あきら) |
絵や書に筆を振るい、沖縄にアトリエを持つ中尾さんは、佐賀県唐津市のなじみの窯元では陶芸も楽しんでいるとか。「『一楽、二萩、三唐津』と言うけれど、地元ではそれぞれの個性を誇り、わが町の焼き物こそ一番、と思っているんじゃないかな。中でも萩焼はざんぐりとした風合いが魅力的。一体どんな土からあの特徴が生み出されるのか、いつも私が触っている唐津の土と比べて確認してみたいな」と、今回の旅は、窯元での陶芸体験からスタートした。
土の秘密
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| 兼田昌尚/1953年生まれ。萩陶芸家協会理事。文化13年(1817)に開窯した天寵山窯の8代目当主。 |
中尾さんを笑顔で迎えてくれたのは天寵山窯8代目当主の兼田昌尚さん。「花びんでも作られますか」と兼田さんが用意してくれた萩焼用の土に触れた中尾さんは、「ああ、手離れがいいな」と声を弾ませ、「萩では昔からこの土を使ってきたのかな?萩で採れる土ですか?」と問いかけた。
「主原料は、江戸時代から変わらず、現在の防府市あたりで採れる大道土です。それに鉄分の多い見島土(※注2)やそれぞれの窯元の近くで採れる地土を混ぜて使っています」と兼田さん。中尾さんは「防府って、瀬戸内側でしょ?随分遠くから土を運んだもんだな。江戸時代には大変だったろうな。大道土にはそれだけの価値があったってことかな」と土を形づくりながらさらに尋ねた。
大道土は砂礫の多い白色の土。花崗岩の風化土で、粘りは少ない。そして、耐火度が高く、1,600度以上にならないと完全には焼き締まらないという。
「萩焼は、そんな大道土を1,200度程度の低温で焼き、素地の収縮が少ない半焼け状態で仕上げることによって柔軟な質感を出しています」という兼田さんの言葉に、中尾さんは「つまり素朴で温かい土の肌ざわりは、大道土の特性とそこから生まれた半焼けの結果というわけか」とうなずいた。その間も中尾さんの指は動き続け、土は少しずつ筒状に形作られていく。
萩焼は装飾性の乏しい焼き物だが、それだけに土のざんぐりした手ざわりや、枇杷釉(※注3)のほのぼのとした色調などが際立つ。そして、そんな萩焼の特徴が、派手さを好まず、「わび」「さび」の境地を追求する茶の湯の世界の価値観に合致したことから、萩焼は茶陶の名陶といわれてきた。
中尾さんが、萩焼の土の秘密に納得した頃、その手の中の花びんもほぼ完成していた。
※注2/見島は、萩市の沖合45キロメートル、日本海に浮かぶ島。その島で採れる土。
※注3/釉=釉薬、「うわぐすり」ともいう。陶磁器の素地にかける溶液。枇杷釉は、釉薬と土の反応から生まれる淡黄色の明るく温かい感じの仕上がり。果物のビワのような色。
茶陶の魅力
土の質感とともに、古くから萩焼の特徴とされてきたのが「萩の七化(ななば)け」だ。「言葉からして謎めいてるけど、一体どういう意味なのか、伝統的な萩焼を見た上で確かめてみたい」と翌日、中尾さんは萩城跡そばの萩焼資料館を訪ねた。ここには「古萩」と呼ばれる、江戸時代に作られた萩焼が各種展示してある。迎えてくれたのは萩陶芸家協会参与の斉藤武男さんだ。
そもそも萩焼は、16世紀末、中国地方8カ国を支配していた大名・毛利輝元が朝鮮の陶工、李勺光、李敬兄弟を萩築城に伴って萩城下の松本村に開窯させたのが始まりといわれている。以後、明治維新までは毛利藩直轄の御用窯(※注4)として運営され、特に高麗茶碗(※注5)の流れをくむ茶陶として発展した。その発展には、千利休、古田織部ら当代を代表する茶匠と親しかった輝元、秀元など、毛利一族に茶人が多かったことが強く影響している。18世紀、萩焼茶碗は幕府や諸大名への献上品・贈り物として多用されたという。
斉藤さんは、そんな歴史を解説しながら館内を案内した。そして、茶碗の微妙な色合いに見入る中尾さんに、「『萩の七化け』というのは、萩焼は使い込むほどに茶の成分が茶碗にしみ込み、表面の色や肌合いが微妙に変わっていく、長く使えば何度となく変化していく、ということを表わした言葉なのです」と語りかけ、中尾さんは「なるほど」とうなずいた。
萩焼の素地は焼き締まりが少ないが、素地の上に掛ける釉薬(※注3)は、焼けば十分に溶けて収縮する。この素地と釉薬の収縮のズレが表面に「貫入」と呼ばれる細かいひび割れを生み、そこから茶が染み込む。その結果、茶碗の色が変わっていくことを、茶人たちは「わび」の風情が増す、として「茶馴れ」とも呼び、古くから珍重してきたという。
「同時に『七化け』という言葉には、高麗茶碗を模倣し、それに化けている、という意味も込められています」と斉藤さん。
高麗茶碗は、茶の湯の世界で「わび」の美意識が深まった15世紀末から16世紀初頭にかけて茶の湯の世界で認められるようになった。茶人たちが朝鮮伝来の陶器碗の中から「わび」の精神にふさわしい物を選択して茶碗に見立て、やがて茶陶の中心的地位を占めるようになったのである。萩焼が茶陶の名陶といわれたのは、この高麗茶碗そのままの風趣を備えていたからともいわれる。
※注4/江戸時代に、藩主専用の器物を作ったり、藩主などが産業保護の目的で設けた窯のこと。萩では、坂窯、三輪窯が務めた。陶家は禄を受け、生産資財や作業員などは藩が賄った。
※注5/朝鮮半島から輸入された茶碗の総称。
挑戦の歴史
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| 花江茶亭にて斉藤さんと。 斉藤 武男/1935年生まれ、萩陶芸家協会参与、東京国際ガラス学院長。山口県美展審査員、同運営委員などを歴任。山口県文化功労賞受賞。萩市内にて萩焼ギヤラリーを経営。 |
続いて2人は萩城跡の花江茶亭に立ち寄った。毛利氏の居城であった萩城は、今は堀と石垣に当時の面影をとどめるばかりだが、城跡に整備された指月公園には、13代毛利敬親が国事を画策したというこの茶亭が移築され、風情ある休み処として親しまれている。
一服した中尾さんは、供された茶碗が御用窯を務めた坂高麗左衛門の作だという説明を聞き、手の中のその茶碗をじっと見つめると「この小さな茶碗に、作家の心、いわば宇宙が表現されているんだよな。でも、工芸の世界で作家独自の芸術性を確立し、しかも次代に受け継いでいくのは容易なことではないはずだけど」と腕を組んで考え込んだ。すると斉藤さんは「実は萩焼は、常に挑戦し続けることによって生き残ってきたともいえるのです」と答えた。
「例えば18世紀には御用窯の一つが藩命を受けて京へ上り、楽焼(※注6)を修得していますが、以後、萩焼は高麗茶碗の模倣から和風化へと新たな道を歩み始めたのです」
また、明治維新によって各窯が、それまで経済的に藩に保護されていた藩営から独立自営に転じたために、経営の危機に直面した際にも、内国勧業博覧会やパリ万国博覧会などの各種博覧会へ出品するという新たな挑戦が見られた。これらの出展により萩焼は評判を呼び、一時的にせよ販路を拡大したのだ。
さらに大正期から昭和初期にかけては、再びブームとなった茶の湯の世界で萩焼が認められるようになったことを機に、茶陶への特化を改めて目指した。特に12代坂倉新兵衛は、萩焼をより品格の高いものにするため表千家に入門したという。
「見事な選択だったといえるのではないでしょうか」と中尾さん。
「昭和に入って10代三輪休雪は、古萩の研究を進める中で藁灰釉(※注7)に改良を加え、新たな白釉・休雪白を考案しました。温かみのある純白の釉は、萩焼に新たなる魅力を加えたとされています」と斉藤さんは言葉を続けた。
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| 「萩赤楽茶碗」(1703)三輪休雪(初代) | 「萩井戸形茶碗」(江戸時代前期)作者不詳 | 「萩割高台茶碗」(1974) 三輪休和(10代三輪休雪)山口県立美術館蔵 |
※注6/桃山時代から京都の楽家で代々焼かれている茶碗。初代・長次郎が千利休の指導により茶陶として製造したのが始まり。
※注7/萩焼を代表する釉のひとつ。土灰釉(雑木を燃やした灰を媒溶剤に用いた透明釉)に藁灰(わらを焼いてできた灰)を調合した失透性の白濁釉。
現代陶芸の開花
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| 萩焼資料館にて。 |
萩城跡を後にした中尾さんは、萩城下町にある斉藤さんが経営する萩焼ギャラリーを訪ねた。斉藤さんはここで萩焼作家の個展を開催するなど、作品発表の場を設け、作家とは別の立場から萩焼の発展に尽力している。周辺には萩焼の湯飲みなどが並んだ土産物屋も多く、「萩焼は、茶陶の伝統を受け継ぐだけでなく、生活に溶けこんだ器としても親しまれているんだな」と中尾さん。斉藤さんは「地場産業としても脈々と生き続けてきましたから」とうなずきながら、「しかし、昨今の萩は、現代陶芸作品でも注目されているんですよ」と、中尾さんをギャラリーの中へ案内した。そこには、オブジェや茶陶などさまざまな陶芸作品が展示され、熱心に鑑賞する人の姿が見られた。その空間に浸るようにしばしたたずんだ中尾さんは、「作家が実に自由に自分の宇宙を表現しているなぁ。昨日、兼田さんが『萩に居て、萩の土で自分を表現していきたい』と言われていたのも、こういうことだよね」と目を輝かせ、「萩で現代陶芸の創作が盛んなこと、しかも茶陶や地場産業としての萩焼といわば共存するように、現代陶芸作品が創作されているってことに驚かされますね。こういった動きは、この地に限ったことですか?」と斉藤さんに問いかけた。「当地だけ、とは断言はできないまでも、萩焼が、茶陶の伝統を受け継ぎながら、生活の器も作り続け、さらに常に挑戦を続けて魅力ある芸術作品を創作している陶芸の筆頭であることは、間違いありません」と答え、「例えば95歳の人間国宝・三輪寿雪(11代三輪休雪)先生は日本海がお好きで、そのイメージを表現するために兄上である先代(10代三輪休雪)の考案された休雪白を多用して、作品を制作されています」と続けた。
「寿雪先生にとっては、日本海こそが宇宙ってわけですね。そんな大家までもがそうやって釉薬を吟味するなど意欲的に芸術性の表現に挑戦し続けておられる萩だからこそ、現代陶芸を創作するエネルギーも豊かなんだな、きっと」と中尾さんもうなずいた。
伝統と革新
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| 菊屋横町 |
萩焼に受け継がれる挑戦の気風に感じ入った中尾さんは「現代陶芸の創作が盛んになったきっかけは何だったのか」という新たな疑問を胸に、萩陶芸家協会の会長・12代三輪休雪さんを訪ねた。エロスをテーマとするオブジェを中心に制作活動を続けている三輪さんは、現代陶芸の先駆者といわれている。
対面後、中尾さんに「萩焼といえば茶陶、という従来の観念からすれば、現代陶芸作品は、革新的に受けとめられているでしょうね」と問いかけられた三輪さんは「いつも言うんだけれど、茶陶だから伝統で、オブジェだから革新だなんて僕は思わないのです。他の誰とも違う自分だけの心は、どの時代にも芸術を生み、それは当初、しばしば革新と呼ばれるのです。萩焼400年の歴史の中で常に革新はあったのです」と答えた。中尾さんも「古い時代の物にも、作り手独自の心、すなわち芸術性を伝えるものはありますが、それらの中には作られた当時としては独自ゆえに目新しく、革新的とされたものもあったでしょうね。それぞれの時代に応じた形でその革新の気風を発揮してきたからこそ、萩焼は生き残り続けてきたのですね」と応じた。三輪さんは「どの時代にも新たな試みに挑戦し、その成功が伝えられて伝統となっていった。すべての伝統は、生まれたときには革新だったのです。今の萩にも、志を持った作家たちが大勢いて、萩陶芸家協会の中でも切磋琢磨していることを頼もしく思っています」と熱く語り、2人の会話はやがてさらに大きな芸術論へと広がっていった。
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| 12代三輪休雪/1940年生まれ。萩陶芸家協会会長。後に見えるのは氏の作品「瑞鳥」。 |
三輪邸での熱い語らいを経て、最後に立ち寄った喫茶店で中尾さんは「今回、萩を歩いて、萩焼を作る人、応援している人などに会って、『一萩、二楽、三唐津』とでも言ってしまいそうなエネルギーを感じましたね」と、しみじみ語った。萩焼のカップでコーヒーが運ばれてくると、「茶陶が受け継がれ、現代陶芸が創作されていく一方で、萩焼がこうして気軽に愛用されていることも分ったしとほほ笑み、「私もしばらく滞在すれば、萩のこの風の中で、いい作品が作れるかな」と、満足げに旅を締めくくった。
萩焼一口メモ 萩焼は、一般的にはろくろで形成し、登窯(傾斜面を利用して階段式に焼成室を築いた窯)で焼かれる。ざんぐりとした風合いとほのぼのとした枇杷釉調が持ち味。茶碗や湯飲みの場合は、底の台の部分に切れ目が入った割高台も特徴とされる。
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萩市観光課 電話:0838-25-3139
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萩焼は、一般的にはろくろで形成し、登窯(傾斜面を利用して階段式に焼成室を築いた窯)で焼かれる。ざんぐりとした風合いとほのぼのとした枇杷釉調が持ち味。茶碗や湯飲みの場合は、底の台の部分に切れ目が入った割高台も特徴とされる。




