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歴史の概観 年表 弥生人の渡来 東大寺再建と重源 壇の浦の決戦 大内文化と「西の京」 毛利氏 朝鮮通信使 巌流島の戦い 吉田松陰 高杉晋作  馬関戦争 明治維新 廃藩置県と「山口県」の設置 7人の総理大臣 戦後歴代の県知事
 山口県には歴史的遺産がたくさんあります。遺跡や神社仏閣といった建造物、数々の文化財などなど…。それらを訪れたことのある人は多いと思いますが、「なぜ、ここにあるのか」考えてみたことはありますか?
ここで少し歴史について知識を身につけておきましょう。歴史的な背景を知ることは、「やまぐち」をぐっと身近に感じ、今までと違った、新しい発見があるかもしれませんね。
歴史の概観
 私たちの山口県は、130年前は「山口県」という名前ではありませんでした。何と呼ばれていたのでしょうか?
毛利元就(もうりもとなり)、吉田松陰(よしだしょういん)って有名な人のようですが、山口県とどんな関係があるのでしょうか? ふるさとの歴史をちょっとのぞいてみましょう。
【古代】
 アジア大陸に近い本県は、早くから大陸文化の影響を受け、紀元前2〜3世紀には稲作技術が伝わり、水稲耕作が行われてきました。
 4〜5世紀頃、大和朝廷による統一国家が形成され、県内には6つの国造(くにのみやつこ)と1つの県(あがた)が置かれ、さらに、7世紀には、大化の改新により、周芳:すわ(周防:すおう)、穴門:あなと(長門:ながと)の2国に統合されました。
【中世】
 平安時代から鎌倉時代にかけては、地方の武士団が台頭し、周防国では朝鮮半島の百済(くだら)の王族を祖と称する大内氏、長門(ながと)国では厚東(ことう)氏が、確固たる地位を確立していきました。
 室町時代に入ると、大内氏が、24代弘世(ひろよ)のとき防長2国を平定しました。山口に京の都を模した町をつくるとともに、朝鮮や明との貿易で財力を蓄え、大陸文化の導入に努めました。その結果、山口は「西の京」と呼ばれるようになり、大変華やかな大内文化が開花しました。
 栄華を誇った大内氏も、31代義隆が家臣陶晴賢(すえはるたか)に討たれて衰え、その陶氏を厳島(いつくしま:広島県宮島)の戦いで破った毛利元就が、やがて中国地方のほぼ全域に勢力を広げました。元就の孫輝元(てるもと)は最盛期120万石を誇りました。
【近世】
 しかし、1600年の関が原の戦いで徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍に敗れた毛利氏は、周防・長門2国36万9千石に領地を減らされてしまい、居城を萩に築きました。
 これ以後、毛利氏は、もっぱら内政の充実に努めましたが、藩財政の運営は困難を極めたため、歴代の藩主は、「防長の三白(ぼうちょうのさんぱく:米、紙、塩)」(櫨蝋:はぜろうを加えて「四白:しはく」)といわれる殖産政策をすすめるなど、藩財政の強化に努めました。この結果、長州藩は、幕末には100万石以上の実力をもつようになりました。
 また、藩校明倫館(はんこうめいりんかん)を中心とする教育風土は、吉田松陰、高杉晋作(たかすぎしんさく)など数多くの優れた人材を輩出し、長州藩は、明治維新を推進する中心的存在となり、我が国の近代国家成立に大きな役割を果たしました。
【近・現代】
 江戸幕府が滅んで、明治政府が成立(1868年)すると、長州藩は他藩に率先して領地と人民を天皇に返還し、明治4年の廃藩置県により、現在の山口県が誕生しました。
 明治政府は、多くの新しい制度を取り入れ、近代化政策をおし進め、中でも、近代工業の導入と振興に努めました。本県においても、セメント製造や機械製糸の工場が設立されるなど、近代工業の芽生えがみられましたが、明治時代は、概して農業中心の県でした。
 大正期に入ると、県内の豊富な鉱物資源や恵まれた港湾条件等により、瀬戸内海沿岸地域には、造船、化学、機械、金属等の工場が次々に立地し、さらに昭和期に入っても成長を続け、戦後には一大石油コンビナートが形成されるなど、全国有数の工業県として発展していきました。
県のシンボル 自然 歴史 産業 住み良さ 生活 文化 観光 国際 教育

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